中国感染症情報
北京駐在スタッフの随想
No.006 「点滴禁止令?」
2016年7月13日
特任教授 林 光江
近年、北京には中国人富裕層や外国人向けに外資系の病院が増えた。患者への応対も丁寧で医療費も驚くほど高い。一方、小さな病気なら比較的安価ですむ一般の地域病院も設備投資を重ね、以前とは見違えるように綺麗になってきたが、こういった病院を受診すると今でもカルチャーショックを受けることがある。
まずは何と言ってもプライバシーの感覚が違う。人口の多い中国である。地域の総合病院には患者とその付き添いで多くの人が集まるため、十数年前に行った病院では廊下どころか診察室の中にも人が溢れていた。順番が回ってくると、自分の後ろに並ぶ見知らぬ人々の前で診察が始まる。恥ずかしがっている場合ではない。プライバシーうんぬんより、早く診察を終えてもらい、後ろの人にバトンを渡さなければという気持ちにさえなった。いま私が利用している病院はかなり近代化されていて、以前から見知らぬ人の立ち合いはないが、久しぶりに行ってみると、ロビーと各診察室の入り口にディスプレイが取り付けられていた。順番が来ると画面に患者名が表示され、さらに電子音で名前が連呼される。その先進的なしくみに驚くと同時に、個人情報管理に厳しい昨今の日本の病院ではありえないだろうな、と思いながら診察室へ入った。
もう一つは、ロビーで行われる点滴である。病院のロビーは患者が診察や支払いの順番を待つだけの場所ではない。壁や天井には輸液を吊り下げるための器具が設置されているし、病院によっては点滴のためのフロアが設けられている。発熱、下痢、嘔吐、めまい…あらゆる症状の人々が長時間、肩を並べ点滴を受けている。その様子は壮観であるが、隣の人が感染性の病気を持っているかもしれないと考えるとあまりいい気持ちはしない。ある記事によれば、中国では毎年約100億本の静脈注射用輸液が生産されており、これは国民一人あたり8本となる。点滴大国である。
入院や救急外来でもないのになぜこれほど点滴を施すのだろうと不思議に思い、知り合いの医師に聞いたことがある。実際のところ医師は点滴の必要が無いと考えても、患者が納得しない。特に子どもを持つ親が、少しの熱でも子どもに「消炎薬」の点滴を受けさせて欲しいと頼むという。必要ないからといってしなければ、医療放棄だとか無責任だとか言ってきかないので処方する場合が多いのだそうだ。「消炎薬」とは抗菌薬や抗生物質のことで、熱や炎症があるのだから炎症を抑える「消炎」が必要だという思考である。確かに点滴での投薬は即効性があり、医師が診療に長い時間を割かなくても患者が満足する方法なのだろうが、その結果、抗生物質などの使用が増え、耐性菌の出現が大きな問題になっている。抗生物質投与の抑制は焦眉の急である。
現在、国をあげての規制措置はまだ始まっていないが、いくつかの省では外来での点滴使用を規制し始めている。安徽省は2014年、「点滴を必要としない53種類の疾病リスト」を発表した。上気道感染症、体温38℃以下の急性気管支炎、小児下痢症(経口水分補給できる場合)などのほか慢性胃炎、睡眠障害、アレルギー性鼻炎、慢性喉頭炎、老年性骨関節炎、軽度軟組織損傷、機能性月経困難症、急性/慢性外耳炎などの病気もあがっていて、そんな病気にまで点滴をしているのかと驚くほどである。今年に入ってからは浙江省、江西省、江蘇省でも外来での点滴規制を始め、北京では現在22か所の総合病院が外来での点滴を取りやめているそうだが、まだまだ多くの病院で外来での点滴が続けられている。
5月下旬アメリカで「スーパー耐性菌」が確認されたというニュースが世界を震撼させ、ここ中国でも話題になったが、中国では昨年11月にこれと同様の遺伝子をもつ細菌がすでに見つかっている。点滴による抗生物質の過剰な投与にブレーキをかけるために、国や地方自治体レベルの法による規制は重要だが、医療を受ける人々の抗生物質に対する知識を深め、意識を改めていくことも欠かせない要素である。