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北京駐在スタッフの随想

No.052 「「食人菌」と訪日旅行客」

2024年7月23日
特任教授 林 光江

6月から7月にかけて中国のインターネット上では「日本食人菌」という言葉が頻出し、はじめて見た時はぎょっとした。日本の報道で使われている「人食いバクテリア」を訳したものだろうが、漢字だけの「食人菌」という単語のインパクトは強く、いまだ目にする度に心がざわつく。

この「食人菌」とは劇症型溶血性レンサ(連鎖)球菌のことで、劇症型溶連菌、STSS(streptococcal toxic shock syndrome)とも呼ばれる。

今年3月22日、サッカーワールドカップ2026のアジア2次予選で予定されていた北朝鮮─日本戦が、北朝鮮からの申し入れにより中止になった。理由はこの細菌による感染症への懸念だと伝えられた。当時私は「中止ありきで、無理やり理由付けしているのでは」くらいに思っていた。しかし、6月になると中国でも「食人菌」をめぐるニュースが増え、「日本への渡航はなるべく控えるように」という報道さえ見られるようになった。

中国の大手インターネット検索サイト「百度Baidu(バイドゥ)」が運営する「百度百科」は、中国式Wikipediaともいわれる、ユーザー投稿型のオンライン百科事典であるが、その「百度百科」にも「2024年日本“食人菌”感染事件」という項目が立てられている。「事件」なのである。

中国メディアの多くが日本国内の報道内容を参考にしているようだ。NHKの報道画像を転載している記事も多くみられる。「百度百科」の上記項目で参考資料とされているもののうち最も時期の早いのは、5月29日の中国新聞網である。以下に引用、翻訳する。

日本時事通信社の27日付報道によると、最近、日本レンサ球菌中毒ショック症候群<注:原文のまま翻訳>(STSS)の患者数が急増している。国立感染症研究所のデータによると、2023年日本全国の感染者数は941人で統計上最高の値だったが、2024年は5月12日現在で851人が感染しており、前年同期の2.8倍である。紹介によれば、このレンサ球菌は日本では「食人菌」と呼ばれ、主に人と人との接触や飛沫によって伝播し、無症状の場合が多いが、一旦血液や筋肉などの人体組織に入りこむと発症し、初期症状は発熱や悪寒で、重篤な場合は血圧低下や多臓器不全で患者はショック状態に陥り、致死率は30%に達する。この報道では東京女子医科大学病院の菊池賢教授の話として、65歳以上の患者が過半数を占めており、高齢者は特に注意するよう呼びかけている。(中国新聞網)

このニュースなどに示された「食人菌」という言葉が中国のネット上で広がっているものと思われる。

溶血性レンサ球菌、いわゆる「溶連菌」はいくつかの種類に分類されるが、最も多くみられるのがA群(A群β)溶連菌である。A群溶連菌は健康な人ののど、鼻腔、皮膚などにいる常在菌で、小児に多くみられる「のどの風邪」と呼ばれる急性咽頭炎や、皮膚に炎症が次々と広がる「とびひ」などの原因の一つである。舌にイチゴのようなツブツブの赤味ができるイチゴ状舌や全身に特徴的な発疹が広がる「猩紅熱(しょうこうねつ)」もこの菌によるものだ。

溶連菌感染の多くは抗生物質で軽快するが、まれに重症化して劇症型溶連菌感染症となる。劇症型の症状は発熱、手足の痛みから始まり、皮膚軟部組織壊死や呼吸状態の悪化、急性腎不全など多臓器不全を引き起こし、ショック状態から死に至ることもある。溶連菌から出された毒素によって皮膚や筋肉が液状化して失われることや、致死率が高いことなどから「人食いバクテリア」という過激な俗称をもつ。子どもから大人まで広い年齢層に発症し、特に30代以上に多い特徴がある。劇症型溶連菌は傷口から入り込むことが多いが、最近は傷がなく感染経路がわからないケースも増えているという。

劇症型溶連菌感染症はもちろん日本だけで流行しているわけではない。1987年アメリカで最初に確認され、その後、ヨーロッパやアジアからも報告されるようになった。日本では1992年に初めて典型的な症例が報告されたという。また、近年の感染者増加は、新型コロナウイルス感染症対策の解除とも関連しているとみられる。WHO(世界保健機関)によると、2022年以降、イギリス、フランス、アイルランド、オランダ、スウェーデンなどで劇症型溶連菌感染症の患者が増加している。厚生労働省のWebサイトによれば、日本では2019年以降2023年まで、年間それぞれ894件、718件、622件、708件、941件の報告があり、今年は6月16日までの速報値で1,060件にもしている。

一方、中国では上述の「猩紅熱」が乙類法定伝染病に指定されており、毎月の症例数が公表されている。ざっと振り返ってみると、2023年1月から5月までの症例数は4,604件、同年全体で25,276件。今年の1月から5月までの症例は28,044件で、すでに昨年全体の症例数を越しており、昨年同時期の6倍となっている。溶連菌によって引き起こされる感染症の患者が増加しているということは、劇症型溶連菌感染症が起こる確率も高くなっていると考えられる。

では、この感染症の報道によって、中国から日本への旅行客は減るのだろうか。個人的な体験でしかないが、7月上旬、北京から羽田へ向かうある便は座席の9割ほどが埋まっており、搭乗客の多くが中国人観光客のように思われた。小さな子どもを連れた家族も多かった。中国の報道にも「過度に恐れたり、心配したりする必要はない」という専門家の意見が紹介されるようになった。

この劇症型溶連菌感染症だけでなく、新型コロナウイルス感染症もまた増えてきている。私たち一人ひとりが感染症に対する認識を深め、個人でできる予防対策を意識しながら、過度に恐れることなく、さまざまな活動を進めていく社会を目指したい。