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北京駐在スタッフの随想

No.002 「H7N9ヒト感染発生に伴う食生活の変化」

2013年5月21日
特任教授 林 光江
鳥インフルエンザウイルスH7N9による初めてのヒト感染症例が確認され、家庭内感染も疑われた上海では、4月2日より「三級応急響応(第3レベル緊急対応。『一級』が最高レベル)」と呼ばれる警戒態勢がとられていた。その後、徐々に感染者が増えたものの、4月20日を最後に新規感染報告がなくなった。5月10日にはこの警戒態勢も解除され、市民にいつも通りの生活が戻ってきた。とはいっても、ひと月以上も感染の恐怖にさらされていた人々の生活はこれを機に大きく様変わりした。上海市衛生当局の調査によれば、64.3%の市民が飲食の習慣を変え、45.7%が衛生習慣や健康習慣を見直したという。中国では10年前の重症急性呼吸器症候群(SARS)流行を境に、衛生習慣が飛躍的に改善したと評価されているが、今回は特に食習慣の変化が大きいようだ。

最も大きな変化は鳥や鴨(ダック)の消費が減ったことだろう。これは上海市に限ったことではない。感染が確認された地域では生きた鳥を扱う市場が閉鎖され、多くの家禽が殺処分された。また「鳥や卵を食べなければH7N9に感染しないから」という言葉がごく普通に交わされ、実際にそうする人も少なくなかった。個人レベルだけでなく、学校や職場の食堂でも鶏肉料理を出さない所が増えた。このため鶏肉や卵の販売量は激減し価格が下落、全国の家禽養殖・販売業は大打撃を受けた。5月10日中国農業部(日本の省庁に相当)の発表によれば、全国の家禽業者の損失総額は400億元(日本円約6,500億円)超である。目下の焦点はいかにして当該産業を回復させるかにある。

各地方政府は、親鳥の殺処分やヒナの孵化中断などにより損失をこうむった家禽業者に補助金を出すことを決めた。一方、科学的根拠にもとづいて理性的な鶏肉摂取をと呼びかける動きも出た。国家食品安全リスク評価センターは「65℃で30分以上、100℃以上で2分以上加熱することによりインフルエンザウイルスは死滅する」と通達を出し、適切に調理すれば安全であると周知に努めた。また広東省副省長や海南省農業庁、湖南省畜産局など各担当部局のトップは率先して鶏肉を食べてみせ、安全性をアピールした。しかし市民は冷ややかな視線を浴びせている。「そうはいっても流通経路が心配」「病気で死んだ鳥が売られているかもしれない」。インタビューを受けた人たちはこう語っていた。理屈では分かっても感覚的、感情的に受け入れられないのだ。

こういった人々の反応は、中国の食の安全問題と底辺でつながっているように思う。昨年末、中国のケンタッキーフライドチキン(KFC)やマクドナルドに鶏肉を卸している山西省の大手養鶏業者がニワトリに大量の成長促進剤を投与していたことが発覚し、KFCからの消費者離れを促した。それから半年もたたないうちに起きた鳥インフルエンザウイルスH7N9のヒト感染によって、4月の中国のKFC既存店売上高は前年同月比36%減となった。

また遡れば2007年末から2008年にかけて日本で騒がれた中国製冷凍餃子による中毒事件。中国の警察当局は当初、日本輸出後の毒物混入、つまり日本側の問題と主張していた。その後同じ工場から出荷された餃子による中毒事件が中国国内でも確認され、2010年になって中国の工場職員による犯行だとした。同時期2008年の秋、一部の国産粉ミルクからメラミンを検出したと中国衛生部(省)が発表した。5万4千人以上の乳幼児が健康被害に遭い、死者も出ている。それ以来、日本製の粉ミルクを買って帰る中国からの旅客の姿が見られるようになった。一人っ子が多く、家庭内で子どもが何より大事にされる中国で、粉ミルク被害による心理的な影響はまだ続いており、日中関係が冷え込んだ昨今では、オーストラリア、ニュージーランド、オランダなどの外国産粉ミルクを求めて香港あるいは欧州まで買い出しに行く人が絶えないという。そのほかにも薬剤で脂肪を減らし赤身主体に育てた食用豚、カドミウムを含んだ米、「地溝(下水溝)油」と呼ばれる再生食用油など、食品に関する問題は後を絶たない。そのたびに人々は動揺し、自ら得た情報にもとづいて判断し、行動する。

餃子中毒事件から数年経ち、日本における中国産食品の消費が回復したように、中国でもしばらくして感染の恐怖が薄れれば、鶏肉や卵の販売量は元に戻る可能性がある。しかし食の安全に対する信頼回復には、長い時間がかかるだろう。