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北京駐在スタッフの随想

No.017 「海外旅行の意外な目的」

2018年5月25日
特任教授 林 光江

早くも夏のような日差しに包まれた4月26日、北京の在中国日本大使公邸で「日中平和友好条約締結40周年」を記念する春の交流会が開かれた。日本の企業や地方自治体によるブースには日本の食品や化粧品見本が並べられ、緑が芽吹く日本庭園にはお茶席が設けられ、招待客はつかの間の日本情緒を楽しんでいた。

会場で配布された横井裕特命全権大使のご挨拶も日中関係改善への期待にあふれており、2012年尖閣諸島国有化から数年にわたる日中関係「冬の時代」を経験した私の心も温かくなった。そのご挨拶の中に次のような一節があった。「特に近年、人と人との交流が両国の間でますます盛んになっていることに、私たちは大変に勇気づけられております。昨年は735万人を超える中国からの観光客が日本を訪れ、思い思いに日本での滞在を満喫して頂きました」。

それほど多くの旅行客が訪日しているのかと感心して帰ったところ、「中国からの海外旅行客1.3億人超」という記事が目に留まった。日本の観光庁に相当する中国旅游局傘下の研究機関である「中国旅游研究院」とインターネット旅行会社最大手の「Ctrip(携程旅行網)」との共同調査によるデータを取り上げた記事で、2017年海外旅行に出た中国人は延べ1億3,051万人を超え、前年より7%増、消費金額は1,152.9億ドルにのぼると報じていた。いまや延べ人数でいうと人口の10分の一が海外旅行に出る中国の観光客は、タイ、日本、韓国、ベトナム、カンボジア、インドネシア、ロシアなどにとって最大の顧客となっている。一方、中国人にとって最も魅力のある国はタイの980万人に次いで、日本735万人が2位、シンガポール、ベトナム、インドネシア、マレーシアと続く。日本は距離的にも近く、安全なこともあり、うなずける結果である。

この調査の中で興味深かったのが、海外での「新しい遊び方」という項目だ。フィンランドでオーロラを見る、南アフリカでサファリをする、エアーズロックを徒歩で巡り星空と日の出を見る、ナパ・バレーでワインを味わう、などかなり贅沢な楽しみ方である。そのほかBBCのテレビドラマ「ダウントンアビー」の貴族の旅、ロシアでの戦車操縦、などマニアックなものも目を引いた。海外旅行の最大の目的が「買い物」だった数年前に比べて、体験型の旅行が求められていることがよく分かる。そして意外なことに、これらを抑えて1位になったのが「香港でHPVワクチンを打つ」だった。

HPV(ヒト・パピローマウイルス)は子宮頸がん、その他の癌や尖圭コンジローマなどを引き起こすといわれるウイルスである。HPV関連の子宮頸がんは2012年時点、全世界で53万例が発症し、26.6万人が死亡したとの推計がある。HPVには百数十以上の型があり、現在、3つのワクチンが市場に流通している。まず2種類の型(子宮頸がんの原因となりやすい16型と18型)に対応する2価ワクチンと、4種類の型(16型、18型に加え、尖圭コンジローマを引き起こす6型、11型)に対応する4価ワクチンがそれぞれ2007年、2006年に発売され、2014年に9種類のウイルス型に対応する9価ワクチンが発売を開始した。

中国では2価ワクチンと4価ワクチンは昨年2017年にようやく承認されたばかりである。そして今年4月末に9価ワクチンの販売申請が受理され、順調にいけば本年内に市場に出るものと期待されている。しかし、この記事を見ると、既に昨年のうちに9価ワクチンを接種しようと香港に向かった中国人がかなりの数に上っていたようだ。北京の大学に通う娘にこの話をしたら、思いがけず「そういえば、中国系アルゼンチン人の友だちが香港にワクチンを打ちに行っていたよ」という言葉が返ってきた。それほど身近にあることだったのだ。

日本では2013年4月にHPVワクチンが定期接種として制度化されたが、接種後の疼痛や感覚異常、意識障害、マヒなど健康被害を訴える声が出たため、同年6月には接種の「積極的勧奨」が中止され、2016年には被害者団体による集団訴訟も行われた。一方、昨年7月のWHOなど専門家による報告書では、このような副反応とHPVワクチン接種との直接的関連はないとされており、日本産婦人科学会も「一刻も早くHPVワクチン接種の積極的勧奨を再開すること」を求める声明を出している。ワクチンによる予防効果を頭では理解しても、もし重篤な副反応が起きたらと、接種をためらう人は日本ではまだ多いのではないだろうか。

このように日本国内では賛否両論あり、遅々として進まぬHPVワクチン接種が、隣国・中国ではこれほど求められていることに驚いた。実際に香港でHPVワクチン接種を受けた人数について上述の統計に記載はないが、2017年に中国大陸から香港を訪れた旅行客は4,444万人との数字がある。中国大陸から陸路でも行ける香港は言葉の壁も少なく、安心してワクチン接種を受けられるということであろうが、今後このような役割を日本が担うことも十分可能だと考える。

近年、日本の医療機関や健診施設は外国人を受け入れて医療サービスを提供する「医療渡航支援」、「メディカルツーリズム」に取り組み始めた。また日本の医師が中国の病院で糖尿病の日本式治療を展開しているという話も聞く。命や健康に直接かかわる問題であるからこそ、人々はより良いものを求める。十分に訓練された通訳やコーディネーターなどによるサポート体制を完備し、医療分野でもより一層日中交流が深まればと思う。