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北京駐在スタッフの随想

No.063 「中国から見るハンタウイルス」

2026年5月21日
特任教授 林 光江

5月初旬のゴールデンウィーク明け、クルーズ船「MVホンディウス」でのハンタウイルス感染事例が国際的に大きく報じられた。複数の感染者や死亡例が確認されたことに加え、原因とされたアンデス(Andes)型ハンタウイルスで「ヒトからヒトへの感染の可能性」が指摘されたことから、人々の不安が高まった。ネズミなどの齧歯類が媒介するウイルスが、ヒトからヒトへ広がるのであれば、新たな感染症の脅威になるのではないか。そのような不安が生じるのは自然なことだろう。

中国でも同様の懸念が広がり、中国疾病予防控制中心(中国CDC)や感染症専門家が相次いで見解を表明した。そこで一貫して強調されたのは、「中国にもハンタウイルス感染症は存在するが、今回のアンデス型ウイルスとは状況が異なる」ということだった。

「ハンタウイルス」という名称は単一の病原体を指すものではなく、遺伝子型と血清型によって現在20以上に分類される、ウイルスの総称だ。大きく分類すると、アジア・ヨーロッパ型と南北アメリカ大陸型に分かれ、その性質はかなり異なる。

中国で見られるハンタウイルス感染症はアジア・ヨーロッパ型のウイルスによるもので、代表的なものとしてハンターン(Hantaan)型やソウル(Seoul)型が知られている。これらは主として腎臓や血管系の障害を引き起こす。中国では長らく「流行性出血熱」と呼ばれており、WHOが推奨する名称「腎症候性出血熱」に相当する。

この疾病は中国の法定伝染病の「乙類」に分類され、全数把握の対象となっている。感染力や重症度などを考慮して管理される甲類、乙類、丙類の三段階のうち、乙類には新型コロナウイルス感染症やウイルス性肝炎、エイズなども並ぶ。乙類だからといって直ちに「危険」を意味するわけではなく、公衆衛生上の継続的な監視が必要な感染症群ととらえる方が実態に近い。国家疾病予防控制局による2024年の統計では、4,259症例、死亡12名が報告されている。

「流行性出血熱」の症状は発熱、頭痛、腰痛、眼窩痛などから始まり、進行すると血小板減少や尿量低下、腎機能障害などがみられる。中国には「三紅」「三痛」という、昔ながらの症状の呼び方があり、「三紅」は顔、首、上胸部の赤み、「三痛」は頭、腰、目の奥の痛みを指す。臨床の現場で症状を把握するための言葉だが、必ずしも全ての患者にあてはまるわけではない。治療は対症療法が中心だが、中国ではアジア・ヨーロッパ型ハンタウイルスに対応した不活化ワクチンがあり、野外業務に従事する人々に対して広く使用されている。

一方、今回問題となったアンデス型ハンタウイルスは南北アメリカ大陸型に属し、主として肺に重篤な症状を起こす。発熱や筋肉痛、咳や呼吸困難が現れ、重症例では急速に呼吸不全へ進行することもある、いわゆる「ハンタウイルス肺症候群」である。このアンデス型はハンタウイルスの中では例外的にヒトからヒトへの感染が報告されている。今のところ治療薬やワクチンはなく、対症療法しかない。

中国の専門家が強調するように、中国国内で流行しているハンタウイルスと、今回のアンデス型ハンタウイルスは異なる存在なのである。またアンデス型の自然宿主となる齧歯類が中国国内では確認されていないことから、中国CDCは国内における大規模流行の可能性は低いとの見解を示している。

日本にもアンデス型ウイルスの宿主となる齧歯類は存在しない。では安心してよいか、というと少し気になることもある。感染症に関する議論にはよく「変異」という言葉が登場する。ハンタウイルスはRNAウイルスの一種であり、遺伝的変化を生じやすい。新型コロナウイルスのパンデミックを経験した私たちは、「変異」という言葉に敏感になった。しかし、遺伝的変化が生じやすいことと、ヒトからヒトへ容易に感染する能力を獲得することは同義ではない。現時点では、アンデス型以外のハンタウイルスについて、持続的なヒト-ヒト感染が確認された例はない。

感染症はしばしば人の心を映し出す鏡となる。未知のものへ不安は当然の反応だが、不確かな情報が過度な恐怖を生み出すこともある。コロナ禍の数年間、私たちは病原体そのものだけでなく、情報の洪水とも対峙してきた。いま求められるのは、過小評価も過剰反応も避けながら、科学的な知見に基づいて状況を冷静に見極める姿勢である。見えない病原体と向き合う時代だからこそ、そのような真摯な姿勢が大切だと思う。